ご挨拶
初めまして、この度足立区竹の塚に開業する竹ノ塚駅前クリニック内科小児科皮膚科の院長の中島義之と申します。
この度は当院のホームページをご覧頂きありがとうございます。
クリニック受診は通常ハードルが高く、ホームページだけ見て決めるのは勇気がいるかと思います。
なのでここでは少しでもみなさまにご安心いただけるよう僕の思いや自己紹介をさせていただこうと思います。
医師を目指すきっかけ
僕が医者を目指すきっかけになったのは子供の頃です。
自分が子供の頃に小児喘息を患っており発作で苦しんでいた時に、
医師である父親が自分を治療してくれたことを覚えており自分も人を助けたいと思い医師を志すようになりました。
診療科目については何でも自分で見れるようになりたい、困ったらまず相談してもらう窓口、
それこそコンビニのように便利な存在になりたいと思いました。
僕は医者ですが歯医者は実は苦手です。
歯科の知識は医学部ではあまり教わらないので、こうして欲しい、など伝えられません。
どうしても処置をするのが痛いのでは?本当にこの治療でいいのかな?と考えます。
このことからクリニックでも同じことが言えると思います。
患者さんはクリニックではどうしても受診するのに緊張したり、聞きたいことが聞けなかったりすると思います。
患者さんのクリニック受診のハードルを下げて治療にあたりたいと考えいろいろ経験したいと考えました。
医師になり、研修医時代は非常に厳しい研修で研鑽を積みました。
元々1人で何でもみれる医者を育てるというコンセプトの病院で内科、小児科、皮膚科問わずたくさんの病気の方を診察してきました。
大変でしたが医者というのは最初の研修医時代の勉強が大事だと思っていましたので、
そこでの学びや経験が今の自分を支えてくれており本当に大きな力になっております。
その他救急医療を経験し、たくさんの方の風邪の症状から重症な方まで、患者さんを問わず診察してきました。
また海外研修や学会発表などをし学びの機会を与えてくれた病院に感謝をしております。
たくさんの重症な方を見ているうちにこんな病気になるまで自分の仕事に熱心に頑張っている患者さん達の姿を見て、
救急医療は非常に大事ですが、それだけで良いのかな?と考えるようになりました。
そして目の前で悪くなってから救うことも非常に大事ですが、重症になってから病院に行くのではなく
普段平日に病院に受診してもらい、病気を防ぐ予防を中心としたいと思いました。
健康でなくなるとどこか心に負い目を持ってしまうのでは、とも考えたからです。
そして医学生の時にいろいろ相談する窓口としてプライマリ・ケア医(かかりつけ医)に憧れていたことを思い出しました。
そのため開業しようと思い、さらに経験を積むために内科、小児科、皮膚科、泌尿器科、耳鼻咽喉科、在宅医療、など
多くのクリニックで経験を積んで参りました。
クリニックを開業しようと思った理由はもう一つあります。それは
健康を提供し、イキイキとした人生を皆さんに送って頂きたい、その医療を通じて日本を元気にしたい!
という思いです。
私は日本が大好きです。文化や人柄、食事や四季、なんて素敵なところなのだと思います。
その日本は新型コロナウィルス感染症や少子高齢化などさまざまな問題を抱えています。
僕にできることは日本を支える、働くパパや子育て世代のママにエールを送ることだと思いました。
健康とは「病気でないこと」ではありません。
健康とは「心身ともに健やかで活力に満ちた状態」、つまりイキイキとしていることです。
そのためにまず患者さんに来てもらえるようなクリニック、自分とスタッフがイキイキとしている必要があると考えます。
人間としてまだまだ未熟ですが、医療の質は日々研鑽を積み、責任と自信をもっております。
医療だけ良くてもイキイキのお手伝いはできないと思います。
来てよかった、元気になれたと思えるようにスタッフ一同心がけて努めてまいります。
僕が目指すのは世界最弱のヒーロー、アンパンマンです。
アンパンマンの作者のやなせたかし先生ご自身がお話されているので世界最弱は間違いありません。
アンパンマンは汚れたりぬれただけでも弱くなってしまいます。
それでもアンパンマンはやっぱり強いです。
みんなを助ける、そこの信念がどんな状況でも全く変わりません。
僕自身一人ではとても弱いです。スタッフや周りの方の力を借りて
皆さんの助けになれるよう精進します。
自力より他力、他力より釈迦力(社会の力)を借りられるように
誠実に皆さんに向かい合っていこうと思います。
自分に縁ある人の物心両面の幸せの追求、を大事にします。
ご不安な点などあれば遠慮なさらず相談ください。
院長 中島義之
略歴
2006年 | 川崎医科大学卒業 |
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2007年 | 沖縄県立中部病院初期研修開始 |
2009年 | 沖縄県立中部病院後期研修開始 |
2012年 | 東京ベイ・浦安市川医療センター |
2018年 | さまざまなクリニックで勉強 |
2021年 | 竹ノ塚駅前クリニック内科小児科皮膚科にて開院 |
所属学会・資格
- 日本プライマリ・ケア連合学会認定 プライマリ・ケア指導医/認定医
- 日本内科学会認定 内科認定医
- 日本救急医学会認定 救急専門医
共著書籍
- 医師人生は初期研修で決まるって、知ってた?
- 研修医指南書「今の若者は・・・・・・」って、嘆いていませんか?
- 実践シミュレーション教育 医学教育における原理と応用
- 主訴から攻める心電図〜異常波形を予測し、緊急症例の診断に迫る!
- 必勝!気道管理術 ABCははずさない
- エラーを防ごう!救急M&Mカンファレンス:成功するM&M導入のためのStep by Step
- ER・救急999の謎
- 考えるER サムライ・プラクティス
- 君ならどうする!?ER症例に学ぶ 救急診療のプロセス
- AMLS日本語版ー観察に基づいたアプローチ(翻訳)
- タラスコン救急ポケットブック(翻訳)
メディア出演
- テレビ朝日 グッド!モーニング 2023年6月8日 5類移行後の感染症の流行について
取材
- CLINIC ばんぶう 2022年9月号
推薦文
医療法人社団モルゲンロート理事長・医療経営大学学長 小暮裕之先生
医療法人社団モルゲンロート理事長ならびに医療経営大学学長の小暮裕之です。 中島先生は医療の修練に加えて、医療経営大学(医療経営大学についてはこちら)でも熱心に勉強されています。 地域の方への貢献を第一に考えられており、院長として信頼できる方です。 お困りの際には中島先生を頼ってぜひ相談されてください。
個人史
どんな医者なのか見ていただいて少しでも皆さんの安心につながればと思い、これまでの人生について書いてみようと思います。もしご興味があればご覧ください。
幼稚園時代
父の仕事の影響で沖縄に住んでいました。シャイでなかなか友達ができず、家でテレビを見たり1人で遊んでいることが多かったと思います。ただ一旦仲良くなるととてもよく喋るので、仲良くなった友達とはいつも遊んでおり、よく日に焼けて怪我だらけでした。沖縄だったので路面にハイビスカスがよく生えており蜜を吸っていました。思えば子供時代から食いしん坊だったと思います。
小学校時代
小学校の高学年から東京に一家で移住するようになり東京の田舎に住んでおりました。非常にのどかなところで自然もあり山に行ったり公園に行ったり友達と遊んでいた記憶ばかりです。学校の成績は振るわないので塾にも行かされていましたが、自分から行きたかったわけではないので正直塾でも遊んでばかりでした。持病の喘息もたまに出現しており風邪をひいた時や季節の変わり目は発作が出て苦しくなることがありました。ただ幸い日常生活にはあまり影響はありませんでした。
中学校時代
最初は小学校同様で遊んでばかりでした。ただ次第に将来のことを考えるようになり、先ほど述べたように自分が喘息で苦しかったことを思い出し医師を目指すことを決意しました。そこからは塾に真剣に通うようになり成績も上がっていきました。
高校時代
高校時代も中学同様勉強に励んでいました。部活をすることにしたので当時漫画でも流行っていたバスケットボールを始めました。全然運動が得意ではなかったので最初は慣れるのに非常に苦労しました。ただ友達の支えもありなんとか続けることができました。弱小校でしたが毎日練習してチームメートと過ごすことに楽しさを覚え、またチームワークの重要性も認識できました。
大学時代
大学は医学部ということもあり非常に勉強は大変でした。高校時代よりよっぽど勉強が必要でした。休みの日は朝9時から図書館に向かい18時に帰宅してからすぐに友達とファミリーレストランで夜中1時頃まで勉強していました。学校の成績は幸い良かったですが、勉強ばかりしていた思い出です。医学部の高学年になってくると一般社会でいう就職活動をするのですが、大まかに大学病院に行くか、一般の総合病院に行くかになります。大学の研修医は総合病院の医者ほど患者さんをたくさんみているわけではなさそうなのでたくさんの患者さんを経験できる総合病院を探すことにしました。10箇所ほど病院を見て周りましたが、結局病院の良し悪しを判断する基準が自分の中になかったのでどこに進むべきかわかりませんでした。そのため日本で一番厳しい病院に行けば間違いないと考え日本一過酷と称される沖縄の地に再度足を運ぶことになりました。
研修医時代
研修医時代は本当に大変でしたが自分に大きな自信をもたらしてくれました。最初にみた患者さんはお子さんの熱性けいれんで、自分の目の前でお子さんがけいれんしてしてしまい大変焦ったことを覚えています。熱性けいれんはほとんどがすぐに止まる良性の病気です。幸いこの患者さんもすぐにけいれんは止まりました。ただ全く初めてだったので患者さんのお母さんに「先生落ち着いて!」と励ましの声をかけられたのは一生忘れません。
その頃は働き方改革というものはないので当直があると朝から次の日の夜まで仕事で働くことになり、それが週に何回かありました。ただそれ以上に全国から集まった優秀な同期や諸先輩方、後輩に背中を押してもらってなんとかやり切ることができました。
実は自分は研修医時代に祖父が亡くなっています。当時僕は研修の忙しさを理由に会いに行かず、「目の前の患者さんに還元しているから」と言い訳を自分にしていました。その結果、僕が最後に祖父を見た時はすでに骨になっていました。忙しさを理由に自分の大事な家族を後回しにしてしまったのです。今、僕の父親は体調が優れません。僕は父親にも同じ過ちを繰り返さないように家族を大事に、自分や家族、スタッフに優しくできなければ患者さんにも優しくできない、と考えています。そしてみなさんにも同じ過ちを繰り返してほしくないと思います。
勤務医時代
沖縄での経験をもとに様々なところで指導する医者として後輩の研修医を指導して、軽症の患者さんから命の危険に瀕した重症の患者さんまで、赤ちゃんから大人まで本当に幅広い経験をしてきました。他患者さんを診察する活動以外にも医者向けの医学書の執筆やワークショップなどたくさん経験させてもらいました。その他ハワイ大学での研修や海外での学会発表など自分の力になる機会をたくさんもらいました。
そのような病院での医者としてのキャリアに全く不満はなくこのまま人生を終えていくと思っていたのですが、毎日通勤している時にふと周りを見てみると仕事に忙しそうに向かう社会人の方々の顔色を見ていてはっとしました。みなさん失礼ですが、あまり楽しそうな顔をして仕事に向かっていないことに気がついたのです。それまでは体調が悪くなった方が健康になるお手伝いをしていてそれができていれば良いと思っていましたが、元気な方が幸せとは限らないと感じたのです。
そのため自分で開業して健康に生活してもらうだけではなくみなさんがイキイキと働ける社会を作るお手伝いができれば、と思いました。そのためにもまず自分がイキイキとするだけでなく、患者さんの不安に寄り添える思いやりをもつ必要があると考えました。
内科、小児科、皮膚科、内科の訪問診療や小児科の訪問診療などたくさんの経験を積みました。開業場所について竹ノ塚を選んだのは地域で困っている患者さんの声をたまたま知人から聞いたためです。開業をするなら困っている人が多いところが良いと元々思っていたので竹ノ塚に決めました。昨今のコロナ流行のタイミングでの開業は非常に勇気がいりましたが、自分に縁ある方々が本当にたくさん支えていただきこのたび開業をすることができました。本当に自分は人の縁に恵まれておりいろいろな場面で助けていただきました。今度は僕がそのご恩に報いるために地域のみなさまに少しでもお返しできればと思います。
今後は皆様の少しでもお役に立てるよう誠心誠意、診察します。どうぞよろしくお願いします。